木漏れ日がライスシャワーのように (4)

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これまでのお話

木漏れ日がライスシャワーのように (1)

木漏れ日がライスシャワーのように (2) - 家族の心模様 I

木漏れ日がライスシャワーのように (3) - 家族の心模様 II

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6歳年の離れた兄とは、幼い頃は本当に仲が悪く、当時は口を聞いた記憶も殆どないほどだった。

当時の兄は、短ランにボンタンという典型的な恰好で学校に通うという、いわゆる”ヤンキー" (死語?)であった(何度か学校から連絡が入り、母が校長室に呼ばれて行ったこともあったわよ!)。

一方、自分はゲーム・アニメ大好きで吹奏楽部所属という、毎週水曜は湘南で暴走族(もどき)の活動をしていた兄とは正反対の性格だったから、もちろん気が合うはずもなく、兄が家にいるときは、兎に角、兄の気に障らぬよう、殴られぬよう、気を消して生活していたものである。

その後、自分が高校に入る頃には、兄は家を出て、それ以来長いこと顔を合わせることも連絡を取ることもなかった。

「お兄ちゃんのところ、子供できたらしいわ」

大学を卒業し、東京でサラリーマンをしていた時に、母からそんな連絡が入った。

兄がいつのまにやら結婚したことは聞いていたが、兄に子供ができるというニュースは自分のことのようにうれしかったのを覚えている。

そして、それがきっかけとなったのか、あるいは自分も兄もそれなりに年をとり角がとれてきたからなのか、自分が働いていた会社が出していた育児の本を兄のお嫁さんに送ったりしているうちに、兄と自分の関係は、徐々に雪解けとなり、やっと普通に話をすることができるようになったのであった。

その後、兄がその奥さんと離婚したあとも、自分が日本に帰る度に、仕事の都合を合わせて甥っ子や姪っ子をつれて、顔を出してくれている。

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「兄はどうするの?」

母と妹とランチをしているときに、妹が兄に今回の結婚のことを伝えるのか問うてきた。

「お兄ちゃんには、結婚の事、言わないほうがいいかもしれんね」

それを聞いた母は、そう答えた。

なんせ、長い間、兄と自分との"冷戦"をみてきた母である。それでなくても、元ヤンキー(死語!)で、当時テレビにゲイのタレント(おすぎさんとピーコさんとか日出郎さんとか…)が出ていたりしたら、「こいつら死ねばいい」くらい平気で言っていた兄であるから(ひどい!)、母がそういうのも理解できる。

自分も、父の件もあるし、これ以上、家族から嫌な顔をされたり、また嫌な気持ちになって欲しくないという気持ちがあったから、結局、兄とその甥っ子と回転寿司に行った時も、兄が部活帰りの姪っ子を連れて実家に顔を出した時も、何も言えずにアメリカへ戻る前日を迎えてしまったのであった。

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夜中すぎ、アメリカへ帰る準備で荷物を詰め終え、ベッドに横になった。

ふと、以前ゲイ友達のKちゃんが弟さんにカミングアウトしてうまくいった時の話や、サンフランシスコサラリーマンの会のTさんが日本の弟さんにカミングアウトして以来、一番の人生の相談相手になっている話などを聞いていたのを思い出した。

そして、ベッドの横においておいた、焼酎の水割りを一気飲み。

"えーい、もう兄にも言っちゃうわ!!!"

と兄にLINEを送ってみることにしたのである。

「自分、結婚することになったんだけどね...」

「いわゆる同性婚ってやつだから…」

「母ちゃんと妹には言ったけど、父ちゃんはダメみたい...」

返事が来るのが怖くて、まとめて立て続けにメッセージを送る。

すると、しばらくして返事が帰ってきた。

「マジか、ついに、おめでとう!」

「今の時代はなんでも理解されているから、おまえはおまえらしく生きればいいと思うよ。」

「俺も自分勝手に今まで生きてきたから。でも悔いはなし。」

「おまえも悔いのないように(^^)V 仕事もあまり頑張らずに、身体大事にしなさいよ。」

兄からのそんな優しさにあふれた返事に、またも涙が止まらぬ中年オカマの自分である。

41年生きてきて、はじめて兄の優しさを知った夜だったのだ。


続く





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